Wat Intharamはタークシン大王の寺院
ワットインターラームは、アユタヤ王朝時代に建造されたといわれており、タークシン大王時代に完全に修復され、ラーマ3世時代に再び修復されました。
タークシン大王とは
タークシン大王(在位1767〜1782年)は潮州出身の華人で、幼い時にタイ族のチャックリー伯爵(ラーマ1世とは別人)の官吏の養子となり、21歳で出家して24歳で還俗し、タークの監察官に任命されました、在任中に知事が亡くなり知事職に就任。この時、ターク知事の称号に本名の「シン」が付けられて通用名「タークシン」となりました。
ビルマ軍が侵攻してきた時、タークシンはアユタヤの防衛に加わりましたが、無断で砲撃した罪を問われ、ラヨーンへ出奔。タークシンは挙兵するとチャンタブリーを制圧した後、兵を集めてアユタヤへ向かいましたが、すでにアユタヤ王朝は滅亡し、ビルマ軍によってアユタヤの町も徹底的に破壊されていました。
1767年、チャオプラヤ川下流のトンブリーに王朝を建てました。
タークシンは敵対するピサヌロークやナコーンシータンマラートなどの諸勢力を破り、アユタヤ王朝の属国であったカンボジア、ラオスも回復しました。在位15年間の大半を戦争に費やしたタークシンを支えた将軍がチャックリー侯爵(後のラーマ1世)です。
タークシンは中国系でアユタヤ王朝の王家の血を引いていないことに強いコンプレックスを抱き、次第に精神錯乱を来すようになりました。僧侶に自分を礼拝するよう命じ、断った僧侶を捕えて僧籍を剥奪し刑に処しました。
この事は民衆に衝撃を与え、鉱山の税務官の職権乱用も民衆の離反を招き、各地で反乱が起こり始めました、タークシンはサン伯爵に反乱鎮圧を命じたが、サン伯爵は却って反乱者を集めてトンブリーを攻めて摂政に就き、タークシンは出家を強いられました。この時、マハー・カサットスック公爵(後のラーマ1世)がカンボジア遠征から戻り、民衆の支持もえて国権を掌握。
1782年4月6日、タークシンはマハーカサット・スック侯爵によって処刑され、トンブリー王朝はタークシン一代で滅亡しました。
ワット・インターラームの行き方
●BTS Pho Nimit(ポーニミット駅)下車。北へ徒歩10分。
●バス:Si Lom(シーロム)から4番のバス。(寺院の前に停車)
Rama3世エリア
Thoet Thai Rd(トゥートタイ)通りの寺院の門をくぐります。本殿と仏塔があります。白亜の美しい仏塔が3塔が並んでます。
この仏塔は毎週土・日曜日と祝日のAM9時~PM5時までと案内看板にありました。
本殿の前にタークシン大王の黄金の銅像があります。Rama3世エリアは広々として美しいですが、参拝の人は少ないです。
タクシン大王エリア
Rama3世エリアを運河の方に歩いた奥にタークシン大王のエリアがあります。タークシン大王と王妃の黄金の仏塔です。
タークシン大王の銅像です。この奥にタークシン寺院があり、こちらには多くの人が参拝に訪れています。トンブリー王朝を1代で現在のタイの原型を築き上げたタークシン大王は、現在もタイ人にビルマ軍による侵略から国家を救った英雄として人気があります。
ワット・インターラームは運河に面しています。コロナパンデミック前にこの水路を水上ボートに乗船したことがあります。現在も運行しているのかは確認できませんでした。
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